疲労度 MAX
死にそうなほどにしんどい。
きっとぼくはもう死にます。
毎日家に帰って爆睡。
やばいわ…
解析の演習あったけど、問題解くの忘れてたし…
だめじゃん。
いろいろ書きたいことあるけれど、今書けないから、今度書く。
忘れないために箇条書き。
- 原チャメンテしたよ
- 友達が中免とれそうだよ(イイナー)
- べつの友達は演習の度に担当のセンセイにケンカを売るのはやめるべきだと思うんです
ケンカって…ねぇ…ほら、ボクら、もういい年な訳じゃん…?
ルベーグ積分もリーマン積分も、よく分かってるでしょ、ほんとは
線形性が保たれてるか、ちゃんと分かってんでしょ、ほんとは
ていうかボロ出して欲しいんでしょ、ほんとは
って、思いました、よ。
…人を悪く見すぎ?
いやでもしかし、それでもアイツからは悪の香りが…する…!
- 量子力学は「演算子形式」が熱い
新しい視点から見ると、こんなに見え方が変わるとは…
準備手こずるけれど、スマート!って感じ - 学校における「国語」あるいは「芸術」教育について
講義で先生が批判していた
国語における「筆者の思いを読みとらせる問題」あるいは「音楽・美術における特定の解釈への誘導」の批判
高校生までの自分は、それらは価値観の多様性を損なわせるものと思っていたから納得していたと思う
いまは少し違う
恐らく人に教えるという行為を経験したからだ
あるいは「構成の美・様式の美」の観点が見えてきたからかもしれない
脱線すると、批判を補強するために「『1+1=2』は誰もが疑問に思わない自明なものだが、文や芸術の解釈は人によるものだ」とおっしゃっていたが、これは全く補強になっていない
1+1=2を疑問に思わないということは、単に加法の定義や単位元(あるいは恒等写像)やそもそもの数という概念あたりを深く考えていないということに起因する場合が大半であるように思う
即ち無知ゆえに解釈がぶれないということで、これは決して1+1=2が共通の概念として共有されていることを指すわけではない(そんなもん定義をいじればなんぼでも揺さぶれる)
もっとも、それはそのように教育しなかったから、と言う側面はあると思う…とりあえず、先生の意見には同意しかねた
最後のは、後々しっかりまとめると面白そうだ。
先生つついてるけど、個人的には素晴らしい人に見える。
私にとっての「ただしいひと」であり、こういう人こそが教師になるべきだと思った。
あるいは、こういう人しか教師をしてはいけないとさえ思える。
地元UHF局で放送している地元のオケの演奏会を見ながら書いた、よ。