音楽は教養と感性の結晶

青柳いづみこ
新聞読み返してたら、青柳いづみこの記事が。
ドビュッシーの時間:「版画」「12の練習曲集」「忘れられた映像」ピアニストが見たピアニスト



日本では感性が強調される一方、教養は感性を抑圧するものとして扱われる傾向があると指摘。
欧米では教養と感性、ともに両立した上に音楽があるのだという。


当たり前だけど、そういえば日本ではそうだ、と気づく。
今の音大生は、おそらく教養面ではかなり心もとないレベルだと思う。
もっとも、あくまで試験ではかれるレベルの教養でしか知らないわけだけれど、音大の偏差値見てると、オイオイって思うよね。
音楽活動する上で教養は欠かせないのに・・・。


音楽だけでなく、ほかの分野でもいえるよね、きっと。


教養の危機というのは実際に迫っていると思う。
大学生として必要最低限の教養は求められるべきだと思うし、何らかの方法でそれを探ることはできないのか。
たとえば、理系の入試でも時事の小論文、しかも明確な答えが無いようなものを課すだとか。
文型でも、科学的思考を必要とする問題を出す(計算じゃなくて科学的考察を求めるような)だとか。
前者は恐らく、満点と零点でしか採点できなそうだな。
客観的に教養レベルをはかるっていうのは、やっぱりキビシイ。



思い出すと、大学に入学したとき、学生があまりにもおとなしいのにびっくりしたもんだ。
自分の中では、もっと、社会にぶつかっていく過激なイメージだったのに。
戦うことを避け、社会に自らを埋没させることを受け入れているようで、とても奇異に感じた。
自治会なんてものもあったけれど、正直あれは「自治」会なんてもんじゃなかった。
いくらかのイベントを企画立案実行してワーワー騒ぐのがメインで、学生の意見を取りまとめて大学当局と折衝するのは二の次、そんな感じだった。
そういう空気が、学生から寄せられた要望に対する、自治会の返答から見て取れたんよね。



大学紛争の時代と、今と、思想の面でなにが変わったのかな。
学生の中で教養が溶け出しつつあることはひとつあるとして、それがいったいなにを招いたんやろ。
ひとつ考えられるのは、無知の霧が自らに降りかかる不利益を覆い隠しているということか。
大学院重点化の被害者となったドクターとかはまさにそれよね。
専門に埋没するのはいいとして、官僚の動向に目が行かなかった。
一人一人では無理でも、誰か一人は気づいてもよさそうだっのに。
団結しにくくなっているというのも大きいか。
気づいていた人は恐らく居たんだろうけれど、それが全体に波及しなかった。


三次元空間的な、ではなくて、心理的空間において、学生の密度は確実に低下しているだろうな。





ま、一番なにがいいたかったかというと、自分ももっともっと勉強しようということ。


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