人生

パヤオのドキュメンタリー見てた。
このひとがアニメーション製作に自らの存在意義を見出せたことはきっと幸せなんだろう。
パヤオは人を喜ばせたいといってたけど、自分は人という種が永らえることに貢献したいってことなんかなぁ。
具体的には出てこないけれど。


システムを効率化したい。
自然は変えられないから、関わることができるのはやはり社会なのか。
摂理を見出すことに興味はあるが、それを社会に還元することが幸福につながるとは、考えていない。
あくまでも知的好奇心を満たすための研究であり、あんまり工学に興味はないのか。


それを続けるためには自分の存在が許されているという安息感が必要で、そのためにはまず自分がネタを提供しないといけない。




真の意味でのunknown-selfって、存在しないのではないか。
それはわれわれの行動に透けるものであり、サンプル数とアウトラインの明瞭さには正の相関がある。
パヤオの受け売りになっちゃうけれど、イメージをただ生まれるがまま抽出し蓄積することによってunknown-selfは周りの三つの方向に引きずり出される。
これは命題として成立しうるし、真でありうる。
しかしながら、それがわれわれのもつ有限時間のうちに完遂可能かという問もまた命題となりうるかは、サンプル数と時間の間にもやはり正の相関があるだろうから、また別のものである。
不十分ながらその作業を続けていくことというのがやはり大事なんだろう。
おーるおあなっしんぐで捉えるタイプの物事ではない。
わかっているが、実際に直面するとそういう思考に陥りがちだ。


他ならぬ私によって、私自身を私の世界に組み入れる作業は、私にしかできないし、それは私の究極目標なのだ。
そしてそれを可能にする手段を与えてくれる可能性が、そこに見える。
おそらく今は、いかにeffectiveな篩で選別していくかという、篩選びにかかる時期なんだ。