中国人妻による幼児殺害事件におもう
先日の幼児殺害事件は、中国人妻のドキュメンタリーについてのエントリを書いたあとだけに、胸に残るものがある。
ドキュメンタリーのなかで彫りだしていた問題点がそのまま現れている。
ほんとうに、そのまま。
嫁ぐために日本に来た人というのは、大抵の場合、日本についての知識を十分に持ち合わせているとはいいがたい。
それは、貧しさから逃れたいという思いに駆られて日本に嫁ぐというところからも容易に想像できる。
恵まれた家に育ち、言葉を含めた素養を身につけた上で海外で学んでいる留学生などとはまた、事情が異なる。
そんな人間が、意思の疎通を図りにくい異民族 − しかも基本的に排他的性質を持っているような − のなかでひとりぼっちになる孤独というものは、どういうものなのだろう。
自らをその場においてみると、なんともいえないくらい気持ちになる。
少子化の進み、人口が回復する見込みの薄い日本では、将来において労働力が不足することはもはや確実といっていいだろう。
どれだけオートメーション化を進めようと、製造においてひとが必要である限り、既に南米からの労働者は日本に大勢いることを踏まえても、近隣諸国からのガストアルバイターあるいは定住労働者に依存することになるだろうが、そのときに、一体なにが起こるのか。
すくなくとも、今のままではダメだ。
何らかの対策を施すべきである。
だけれどもそれは決して、モノをつくったり、カネを支援したり、条例をつくったり、そういうことじゃあない。
もっと、日本人の内にある根幹の部分を見つめ直していかないと、きっとこの種の事件は絶えないと思う。
形式的に手を握ることではなくて、もっと、奥の方での繋がりが必要なんじゃないか。
いわゆる「近所のつきあい」が希薄になったこととも相まって、今の状況はかなり深刻だけれども、今のうちになんとかしておかないと、日本でも深刻な民族問題が起こることになってしまう気がしてならない。
そしてひとたび起こった民族問題というのは、時に、解決策のない問題へと発展してしまう…
パレスチナを遠い目で見ている日本だけれども、いつ同種の問題に関わることになってもおかしくない立場にあるということを、もう少し考えてみる時じゃないのかな。
起こってからじゃ遅いよ。
日本は異文化に対して、自身を軟化させ取り込む能力には長けている一面も持っていると思う。
うまくやれば、イスラムもキリストも仏教もヒンズーも、モンゴロイドもネグロイドもコーカソイドも、その他諸々、丸め込めるやらわかさを身につける事って、可能なんじゃないかな。
それをかたちづくるのは、決してハコではなくて中身だし、そうあるべきだと思う。
誤解されたくないので念のために書いとくと、政治の上じゃあ中国は嫌いです、正直ね。
でも、別にひとが嫌いな訳じゃない。
そのあたりをしっかり区別していかないと、中国や韓国で見られるような「安易な」「情報に踊らされた」日本バッシングのようなものに、今度は自分が荷担してしまうことになるんだろう。
そんなの、考えてみただけで吐き気がする。
もちろん犯罪者はしかるべき刑事罰を受けるべきで、その点をぼかすべきではないことを承知で書いたけど、この事件が起こってしまったことに、今の日本社会の問題点があるんじゃないかと思う。
とても深刻な問題がね。